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第7回 中田英寿 その2 [中田英寿]

第7回目も引き続き中田英寿について特集します。

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出典:http://gossip1.net/archives/1013617647.html

まずは是非、この動画をご覧下さい。
中田のスーパープレーがよくまとまっています。



動画を見ると分かりますが、中田は以下の点で素晴らしかったです。

・中盤でのディフェンスのうまさ(ボールを奪ううまさ)
・速くて正確なスルーパス
・オフェンスでもディフェンスでもあたり負けしないボディバランス
・ボールを取られないキープ力
・時には自ら決める得点力

動画の最後にありますが、中田はオーバーヘッドキックでの得点まで決めています。
まるでキャプテン翼の世界です。

自分もサッカーをしていたので良く分かりますが、このオーバーヘッドキックでの得点というのは相当難しいです。

やろうとする選手は多いですが、ミートに失敗し、たいていとんでもない方向にボールが飛んでいってしまいます。オーバヘッドをする本人でさえ、打つときにはまぐれ当たりみたいな感じで打つのです。

それをかっこよく決めてしまうのですから、やはりただ者ではないですね。
間違いなく日本史上最高のサッカー選手だと思います。


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中田の海外での活躍は以下のようになっています。(出典:Wikipedia)

1998年7月 21歳でイタリアのセリエA・ペルージャへ移籍

★1998-1999シーズン
開幕戦で、ジネディーヌ・ジダンを擁する強豪ユヴェントスFCから2ゴールを奪うセンセーショナルなデビューを飾ると、年間10得点(うちPK4得点)をあげるというミッドフィールダーとしての当時の日本人海外リーグ最多得点記録を打ち立てる
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出典:http://trendnews388.blog.so-net.ne.jp/2014-05-01

★1999-2000シーズン
シーズン途中に名門ASローマへ移籍。当初はボランチで起用されることが多く、フランチェスコ・トッティが欠場した時などに従来のポジションであるトップ下で出場した。しかし、トッティが復帰すると再びボランチで起用され、外国人枠の問題もあり、徐々に途中出場が多くなっていった。
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出典:http://www.goal.com/jp/slideshow/2341/3/title

★2000-2001シーズン
大型補強でローマの選手層が厚くなったため、開幕から首位を独走するローマではベンチを温める日々が続いた。スタメン出場も僅か5試合に留まったが、シーズン終盤の敗戦濃厚だったユベントス戦を途中出場から引き分けに持ち込み存在感を示し、日本人で初めてセリエA優勝メンバーとなった。

★2001-2002シーズン
ルイコスタが抜けたパルマへ移籍。レンツォ・ウリヴィエリ監督の下、トップ下でプレーしたが、高いパフォーマンスを発揮したとは言いがたく、チームの成績も振るわなかった。ウリヴィエリの更迭後は監督が次々と交代し、レギュラー争いの日々となっていった。
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出典:http://www.h2.dion.ne.jp/~katokiti/new.htm

★2002-03シーズン
チェーザレ・プランデッリ監督に右サイドハーフでレギュラーとして起用される。アドリアーノ、アドリアン・ムトゥと共に構成された攻撃陣はイタリアメディアから『トリアイナ(三叉の槍)』と称される高い攻撃力を発揮し、中田は敵地でのユヴェントス戦で先制点を決めるなどユヴェントス・キラーとしても賞賛された。

★2003-04シーズン
冬の移籍市場で、中田に信頼を寄せるマッツォーネ監督率いるボローニャへ半年間のレンタル移籍。センターハーフを任された中田は、移籍初戦と次節の2試合連続のアシストによってチームメイトの信頼を得た。以後、セリエAと日本代表の全試合にフル出場する過密日程をこなし、サッカー選手の職業病ともいえるグロインペイン症候群(鼠径部痛症候群)を発症するが、ボローニャのセリエA残留に貢献して恩師の期待に応えた。シーズン末、マッツォーネは中田の完全移籍を熱望したが、パルマが子会社の粉飾決算により破産。中田の完全移籍は実現しなかった。
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出典:http://www.shikoku-np.co.jp/sports/general/photo.aspx?id=20040326000078&no=1

★2004-05シーズン
ACFフィオレンティーナへ完全移籍。シーズン前の合宿までの2か月あまり、日本でグロインペインの治療に専念した。しかし、低調なプレーに終始して現地ファンに酷評され、クラブと日本代表の両方の出場機会を失った。
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出典:http://bootsroom.ocnk.net/product/3265

★2005-06シーズン
パルマ時代に確執があったプランデッリが監督に就任することを知り、7年間過ごしたイタリアを離れ、28歳でイングランド・プレミアリーグのボルトン・ワンダラーズにレンタル移籍。加入後すぐにレギュラーを掴んだ。ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦で、フリーキックからプレミアリーグの初ゴールを記録する。
日本代表の招集に反対するアラダイス監督の信頼を失い、主にリーグ戦の途中出場とカップ戦の出場になっていった。しかし、リーグ戦終盤には5試合連続で先発出場。ただし、ボルトンはロングボール戦術を中心とするチームだったため、その能力をフルに発揮出来たとは言い難い。
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出典:http://berangkat8.exblog.jp/2182309/

★2006年ドイツワールドカップ後に引退

こうして振り返ると、最も輝いていたのはやはり最初のペルージャ時代だと思います。
あの頃はまさにチームの中心として活躍しており、ペルージャは中田のチームでした。ローマやパルマのようなビッグクラブに行くと、他の選手も強力なので、どうしてもレギュラーになりにくいです。でも出場したときにはちゃんと結果を残してきたのです。それが中田です。

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彼の引退はあまりにも突然であまりにも早かったと思います。画像は2006年ワールドカップ最後の試合終了時の中田の姿です。誰もが記憶に残っています。
出典:http://www.soccer-king.jp/news/world/wc/20140606/196997.html
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引退の理由については、当時はけがと推測されていましたが、否定しています。「楽しくてやっていたはずのサッカーを楽しめなくなってしまった。」と本当の理由を明かしています。

また、中田は最後の2006年ワールドカップで日本代表の皆に懸命に強くなるためのメッセージを発信し続けましたが、そのときは上手く受け止めてもらえませんでした。

このことは2006年のワールドカップ特集の中でもう少し取り上げたいと思いますが、中田はやはり他の選手より先に行き過ぎていたのでしょう。


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