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海外で活躍する日本人選手速報 香川がブンデスリーガ前半の最優秀攻撃的MFに! [海外組速報]

ドルトムント香川真司がブンデスリーガ前半の最優秀攻撃的MFに選出されました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160116-00000030-nksports-socc

香川の前半活躍を振り返ってみます。

ざっと成績を確認すると以下のようになっています。

無題.jpg
(出典:http://www.nikkansports.com/soccer/world/japanese/kagawa/result-kagawa.html

ほとんど先発出場で現在4得点をあげています。

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香川真司ブンデスリーガでの4得点映像をまとめてみました。

■8月23日 インゴルシュタット戦



■9月20日 レーバークーゼン戦  ※1得点1アシストの大活躍でした。



■11月8日 シャルケ戦  ※めずらしくヘディングで決めました。



■12月5日 ウォルフスブルク戦 ※後半から登場し、ロスタイムの逆転ゴールを鮮やかに決めました。



ブンデスリーガで香川のドルトムントは現在2位につけています。後半戦も香川の活躍が楽しみですね。
随時アップします。

出典:http://soccer.yahoo.co.jp/ws/standing/?l=56
bunsdesujyuni.jpg
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海外で活躍する日本人選手速報(2016/1/14)ミラン本田、レスター岡崎 [海外組速報]

■ACミラン本田圭祐
1月13日のイタリア杯準々決勝(ACミラン2-1カルピ)で先制アシストを決め、フル出場です!
右サイドで先発した本田は前半14分にアシストを決めました。映像をどうぞ。
(最初の1分の中に本田のアシストがあります)

【動画】


☆イタリア各新聞からの評価は高めです!このままの調子で試合に出続けて欲しいですね。
(出典:http://www.footballchannel.jp/2016/01/14/post132459/

及第点以上の評価「貴重なアシスト」「美しいFKでGKを急襲」

『ガゼッタ・デッロ・スポルト』 6
「良いプレーはいくつかあったが、いくぶんかの物忘れと軽率さもあった。バッカへのアシストはほとんど意図せずに決まったものだったが、貴重なものであったことは間違いない」

『コリエレ・デッロ・スポルト』 6.5
「及第点のプレーがいくらかあって、その中にはバッカの1-0のゴールにつながるパスもあった。ただとりわけ良かったのはその動きだった」

『トゥットスポルト』 6.5
「試合開始は勇気の持てるパフォーマンスを披露。ただし、ファンの不満に対してはきっちりと清算をしなればならないだろう。前半14分にはFKでブルキッチを強襲し、その数秒後にはバッカへのゴールをアシストする。その後は良いプレーと、そうでもないプレーを交互に繰り返していた」

『コリエレ・デッラ・セーラ』 6.5
「アシストを決め(少々ラッキーだったとはいえ)、回転をかけた美しいFKでブルキッチを強襲した。前半は非常に威勢がよかったが、後半にはかなり勢いが落ちた」



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■レスター岡崎慎司
1月13日のプレミアリーグ第21節(対トッテナム)に先発出場し、1-0で勝利!勝ち点で首位アーセナルに並びました。
puremiajyuni.jpg

直近のFAカップでゴールを決めた岡崎は、リーグ戦3試合ぶりにスタメン出場を果たすと、攻守に渡って奮闘しました。前線から積極的にプレスを仕掛け相手のミスを誘い、ポストプレイで攻撃の起点となりました。
77分に交代して無得点に終わりましたが、十分な存在感を示しました。

英『スカイ・スポーツ』は、岡崎に両チーム通じて最も高い評価となる「8」の採点を与えているので、岡崎、良い活躍だったようです!

ハイライトをどうぞ。




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海外で活躍する日本人選手速報(2016/1/13) [海外組速報]

■ACミラン本田圭祐
1月9日アウェーのローマ戦に出場し1アシストを決めました。フル出場で存在感をアピールです。
【動画】


■ドルトムント香川真司
1月12日に行われた親善試合で途中出場し1ゴールをあげました。
【動画】




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■レスター岡崎慎司
1月10日のFA杯:トットナム2-2レスターの試合で後半開始から出場し、後半3分にゴールを決めました。
【動画】1分過ぎぐらいから岡崎のゴールです。


■エイバル乾貴士
1月12日のエスパニョール戦で先制ゴール。8月の移籍から13試合目でリーガ初ゴールです。
【動画】



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第7回 中田英寿 その2 [中田英寿]

第7回目も引き続き中田英寿について特集します。

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出典:http://gossip1.net/archives/1013617647.html

まずは是非、この動画をご覧下さい。
中田のスーパープレーがよくまとまっています。



動画を見ると分かりますが、中田は以下の点で素晴らしかったです。

・中盤でのディフェンスのうまさ(ボールを奪ううまさ)
・速くて正確なスルーパス
・オフェンスでもディフェンスでもあたり負けしないボディバランス
・ボールを取られないキープ力
・時には自ら決める得点力

動画の最後にありますが、中田はオーバーヘッドキックでの得点まで決めています。
まるでキャプテン翼の世界です。

自分もサッカーをしていたので良く分かりますが、このオーバーヘッドキックでの得点というのは相当難しいです。

やろうとする選手は多いですが、ミートに失敗し、たいていとんでもない方向にボールが飛んでいってしまいます。オーバヘッドをする本人でさえ、打つときにはまぐれ当たりみたいな感じで打つのです。

それをかっこよく決めてしまうのですから、やはりただ者ではないですね。
間違いなく日本史上最高のサッカー選手だと思います。


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中田の海外での活躍は以下のようになっています。(出典:Wikipedia)

1998年7月 21歳でイタリアのセリエA・ペルージャへ移籍

★1998-1999シーズン
開幕戦で、ジネディーヌ・ジダンを擁する強豪ユヴェントスFCから2ゴールを奪うセンセーショナルなデビューを飾ると、年間10得点(うちPK4得点)をあげるというミッドフィールダーとしての当時の日本人海外リーグ最多得点記録を打ち立てる
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出典:http://trendnews388.blog.so-net.ne.jp/2014-05-01

★1999-2000シーズン
シーズン途中に名門ASローマへ移籍。当初はボランチで起用されることが多く、フランチェスコ・トッティが欠場した時などに従来のポジションであるトップ下で出場した。しかし、トッティが復帰すると再びボランチで起用され、外国人枠の問題もあり、徐々に途中出場が多くなっていった。
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出典:http://www.goal.com/jp/slideshow/2341/3/title

★2000-2001シーズン
大型補強でローマの選手層が厚くなったため、開幕から首位を独走するローマではベンチを温める日々が続いた。スタメン出場も僅か5試合に留まったが、シーズン終盤の敗戦濃厚だったユベントス戦を途中出場から引き分けに持ち込み存在感を示し、日本人で初めてセリエA優勝メンバーとなった。

★2001-2002シーズン
ルイコスタが抜けたパルマへ移籍。レンツォ・ウリヴィエリ監督の下、トップ下でプレーしたが、高いパフォーマンスを発揮したとは言いがたく、チームの成績も振るわなかった。ウリヴィエリの更迭後は監督が次々と交代し、レギュラー争いの日々となっていった。
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出典:http://www.h2.dion.ne.jp/~katokiti/new.htm

★2002-03シーズン
チェーザレ・プランデッリ監督に右サイドハーフでレギュラーとして起用される。アドリアーノ、アドリアン・ムトゥと共に構成された攻撃陣はイタリアメディアから『トリアイナ(三叉の槍)』と称される高い攻撃力を発揮し、中田は敵地でのユヴェントス戦で先制点を決めるなどユヴェントス・キラーとしても賞賛された。

★2003-04シーズン
冬の移籍市場で、中田に信頼を寄せるマッツォーネ監督率いるボローニャへ半年間のレンタル移籍。センターハーフを任された中田は、移籍初戦と次節の2試合連続のアシストによってチームメイトの信頼を得た。以後、セリエAと日本代表の全試合にフル出場する過密日程をこなし、サッカー選手の職業病ともいえるグロインペイン症候群(鼠径部痛症候群)を発症するが、ボローニャのセリエA残留に貢献して恩師の期待に応えた。シーズン末、マッツォーネは中田の完全移籍を熱望したが、パルマが子会社の粉飾決算により破産。中田の完全移籍は実現しなかった。
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出典:http://www.shikoku-np.co.jp/sports/general/photo.aspx?id=20040326000078&no=1

★2004-05シーズン
ACFフィオレンティーナへ完全移籍。シーズン前の合宿までの2か月あまり、日本でグロインペインの治療に専念した。しかし、低調なプレーに終始して現地ファンに酷評され、クラブと日本代表の両方の出場機会を失った。
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出典:http://bootsroom.ocnk.net/product/3265

★2005-06シーズン
パルマ時代に確執があったプランデッリが監督に就任することを知り、7年間過ごしたイタリアを離れ、28歳でイングランド・プレミアリーグのボルトン・ワンダラーズにレンタル移籍。加入後すぐにレギュラーを掴んだ。ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦で、フリーキックからプレミアリーグの初ゴールを記録する。
日本代表の招集に反対するアラダイス監督の信頼を失い、主にリーグ戦の途中出場とカップ戦の出場になっていった。しかし、リーグ戦終盤には5試合連続で先発出場。ただし、ボルトンはロングボール戦術を中心とするチームだったため、その能力をフルに発揮出来たとは言い難い。
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出典:http://berangkat8.exblog.jp/2182309/

★2006年ドイツワールドカップ後に引退

こうして振り返ると、最も輝いていたのはやはり最初のペルージャ時代だと思います。
あの頃はまさにチームの中心として活躍しており、ペルージャは中田のチームでした。ローマやパルマのようなビッグクラブに行くと、他の選手も強力なので、どうしてもレギュラーになりにくいです。でも出場したときにはちゃんと結果を残してきたのです。それが中田です。

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彼の引退はあまりにも突然であまりにも早かったと思います。画像は2006年ワールドカップ最後の試合終了時の中田の姿です。誰もが記憶に残っています。
出典:http://www.soccer-king.jp/news/world/wc/20140606/196997.html
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引退の理由については、当時はけがと推測されていましたが、否定しています。「楽しくてやっていたはずのサッカーを楽しめなくなってしまった。」と本当の理由を明かしています。

また、中田は最後の2006年ワールドカップで日本代表の皆に懸命に強くなるためのメッセージを発信し続けましたが、そのときは上手く受け止めてもらえませんでした。

このことは2006年のワールドカップ特集の中でもう少し取り上げたいと思いますが、中田はやはり他の選手より先に行き過ぎていたのでしょう。
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第6回 中田英寿 その1 [中田英寿]

第6回目の今回は1998年の日本代表初ワールドカップで高い評価を獲得し、その後世界へと進出した中田英寿について特集します。

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中田英寿は引退しましたが、現在現役の選手を含めても日本最高の選手だったと個人的には思います。

彼の主な経歴は以下のとおりです。(参考資料:Wikipedia)

生年月日 1977年1月22日(2016年1月5日時点で38歳)
出身地 山梨県甲府市
身長     175cm
体重     72kg

1991年 4月(14歳中学3年)- 甲府市立甲府北中学校3年生時、U-15に選出
1992年 5月(15歳高校1年)- U-17アジアユース選手権出場
1993年 8月(16歳高校2年)- U-17世界選手権 4試合中3試合出場、ベスト8
1994年 1月 - 全国高等学校サッカー選手権大会出場、2回戦敗退
12月 - Jリーグ12チーム時代、11チームからオファー。ベルマーレ平塚と仮契約
1995年 2月(18歳高校3年)- プロデビュー
3月 - 公式戦デビュー(Jリーグ)
5月 - プロ初ゴール(Jリーグ)
1996年 7月(19歳)- アトランタオリンピック(U-23) 3試合中2試合出場、2勝1敗、グループリーグ敗退
    ⇒マイアミの奇跡と呼ばれたブラジル戦の勝利がありました。

1997年 5月(20歳)- A代表初出場
11月 - フランスW杯アジア地区最終予選 日本3-2イラン 3アシスト(ジョホールバルの歓喜)
    ⇒最後の岡野のゴールデンゴールに繋がるシュートも放ちました。

1998年 6月(21歳)- フランスワールドカップ一次リーグフル出場 3戦全敗
7月 - セリエA・ACペルージャへ移籍
9月 - シーズン開幕戦(ユベントス戦)で2得点
    ⇒ペルージャではチームの核として活躍しました。

2000年 1月(22歳)- ASローマへ移籍
    9月 - シドニーオリンピック ベスト8
    ⇒中村俊輔や高原、稲本などこの時期が日本サッカーの黄金世代と言われています。

2001年 6月(24歳)- FIFAコンフェデレーションズカップ2001出場 準優勝、1得点
6月 - セリエA優勝(ASローマ 日本人として初)
7月 - ACパルマへ移籍
8月 - チャンピオンズリーグ最終予選出場

2002年 5月(25歳)- コッパ・イタリア優勝
6月 - 日韓ワールドカップ 全4試合出場 ベスト16、1得点

2003年 6月(26歳) - コンフェデレーションズカップ グループリーグ全3試合フル出場、1勝2敗、1得点 グループリーグ敗退

2004年 1月 - ボローニャへ期限付き移籍
3月(27歳)- 「THE FIFA 100」に選出される
7月 - ACFフィオレンティーナへ完全移籍

2005年 6月 - コンフェデレーションズカップ グループリーグ全3試合フル出場、1勝1分1敗、グループリーグ敗退
8月 - イングランド・FAプレミアリーグボルトン・ワンダラーズへ1年契約の期限付き移籍

2006年 6月(29歳)- ドイツワールドカップに出場、1分2敗でグループリーグ敗退
7月 - 引退

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中田は1998年フランス、2002年日韓、2006年ドイツという3回のワールドカップおよび1996年アトランタ、2000年シドニーの2回のオリンピックのほぼ全ての試合で中心選手として活躍しました。
ここまで継続して日本代表の核として活躍した選手は他にいません。

彼のプレーの中で特に個人的に印象に残っているものをご紹介します。

まずは1998年にペルージャに移籍した初戦のユベントス戦で決めた2得点です。

最初の2分と最後2分ぐらいにゴールシーンがあります。


この試合を僕はライブ中継で見ていたので、本当に感動しました。

まさか日本の選手が世界最高峰のイタリアセリエAのしかもユベントス相手に2得点も挙げるなど、夢にも思いませんでした。

ここから中田英寿の伝説が始まったのです。


もう一つ、とても印象的なのが、ローマ時代のミドルシュートです。


これも本当に凄いシュートでした。

まずはこの2つがとても記憶に残っているので皆様にも是非ご覧頂きたい。

次回も引き続き中田英寿について特集したいと思います。

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第5回 1998年初めてのワールドカップ本戦 その2 [1998年 初ワールドカップ]

サッカー日本代表について特集しています。

第5回目の今回は1998年の初ワールドカップ本戦についてもう少し追いかけたいと思います。

前回のブログで、カズの落選が衝撃的だったということを紹介しましたが、他にも本戦出場の切符を手に入れることができず、涙を飲んだ選手がいました。

それは北澤や高木、西澤、本田といったメンバーです。

特に北澤は予選でのスタメンも多く、明らかに中心メンバーでした。
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(出典:http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/jfootball/2013/10/15/post_483/

しかし岡田監督が最後に選出した中盤は、若い小野や平野、伊東らでした。
この決断は今でも物議を醸し出します。

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★1998年ワールドカップ本戦最終登録メンバー

背番号  氏名  ポジ 年齢   チーム
1 小島伸幸 GK 32 ベルマーレ平塚      
2 名良橋晃 DF 26 鹿島アントラーズ   
3 相馬直樹 DF 26 鹿島アントラーズ  
4 井原正巳 DF 30 横浜マリノス  主将 
5 小村徳男 DF 28 横浜マリノス  
6 山口素弘 MF 29 横浜フリューゲルス  
7 伊東輝悦 MF 23 清水エスパルス      
8 中田英寿 MF 21 ベルマーレ平塚  
9 中山雅史 FW 30 ジュビロ磐田  
10 名波浩 MF 25 ジュビロ磐田  
11 小野伸二 MF 18 浦和レッドダイヤモンズ      
12 呂比須ワグナー FW 29 ベルマーレ平塚  
13 服部年宏 MF 24 ジュビロ磐田      
14 岡野雅行 FW 25 浦和レッドダイヤモンズ   
15 森島寛晃 MF 26 セレッソ大阪     
16 斉藤俊秀 DF 25 清水エスパルス      
17 秋田豊 DF 27 鹿島アントラーズ  
18 城彰二 FW 22 横浜マリノス  
19 中西永輔 DF 24 ジェフユナイテッド市原    
20 川口能活 GK 22 横浜マリノス  
21 楢崎正剛 GK 22 横浜フリューゲルス      
22 平野孝 MF 23 名古屋グランパスエイト
監督   岡田武史


ワールドカップ本戦各試合のスタメンは以下のとおりです。
(出典:http://www.atsushi-masuda.com/football/okada1.html

※アルゼンチン戦 0-1 敗戦

19980614.gif

<選手交代>
中山雅史 ⇒ 呂比須ワグナー(65分)
相馬直樹 ⇒ 平野孝(84分)

※クロアチア戦 0-1敗戦

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<選手交代>
中山雅史 ⇒ 岡野雅行(61分)
名良橋晃 ⇒ 森島寛晃(79分)
名波浩 ⇒ 呂比須ワグナー(84分)

※ジャマイカ戦 1-2敗戦

19980626.gif

<選手交代>
城彰二 ⇒ 呂比須ワグナー(59分)
小村徳男 ⇒ 平野孝(59分)
名波浩 ⇒ 小野伸二(79分)


ここで突然ですが、このときの日本代表の中で個人的に印象に残っている選手ランキングです。

第1位 中田英寿
(出典:http://www.u-stat.net/stat.php?id=350
item_3706.jpg

本当に群を抜いて輝いていました。世界の選手と技術もフィジカルも対等に戦っていました。
このワールドカップの後、イタリアに渡ります。

第2位 名波 浩
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中盤のレフティはテクニックに溢れていて、頼もしかったです。素晴らしいパスが印象的です。

第3位 中山 雅史
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決してうまくは無く、足が速いわけでもなく、これといって長所はありませんでしたが、何とかしてくれるという期待感がいつもありました。

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第4位 中西 永輔
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とにかくアルゼンチン戦の2人抜きが印象的でした。度肝を抜かれました。ユーティリティプレーヤーとして活躍していました。


第5位 相馬 直樹
souma.jpg  

このときの日本代表は左サイドからの攻撃とセンタリングがとても多く、相馬がその軸となっていました。


次回はこのワールドカップ後の中田英寿の活躍を振り返りたいと思います。

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第4回 1998年初めてのワールドカップ本戦 [1998年 初ワールドカップ]

第4回目の今回は初めてのワールドカップ本戦について特集します。

まず、このワールドカップで衝撃的だったのが、なんと言ってもメンバー選出です!

具体的にはまだ現役で頑張っているレジェンド・カズこと三浦和良の落選です。

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(出典:http://www.jiji.com/jc/wcup2014?d=d4_spo&p=kaz516-jlp11942185&s=photolist

このときカズは31歳で、全盛期から少し翳りが見え始めている時期ではありました。

ワールドカップアジア最終予選では初戦に4得点をあげ、好調に見えましたがその後は無得点に終わり、ファンからはカズ不要論まで出てしまいました。

確かにカズはこのとき調子を落としてしまってましたし、エースとして不動のレギュラーを勝ち取れる状況でもありませんでした。

しかし、今振り返れば、本当に可愛そうだったと思います。

あれほど日本のサッカーに貢献したカズが、ワールドカップに結局出れなかったのですから。

1998年ワールドカップのフォワードはロペス、城、中山、岡野というメンバーで臨みました。

本当に今更ですが、岡野ではなくやはりカズのほうが、得点の可能性を感じます。

岡野は足が速いだけでした・・・

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さて、本戦の結果ですが、サッカー好きなら誰でも覚えていると思います。

当然の結果だったのかもしれませんが、日本は1点しか得点できず、3連敗に終わってしまいます。

初戦のアルゼンチン戦では予想通りと言ってはなんですが、バティストゥータに得点され、1対0でそのまま負けてしまいます。

しかしこの試合はもともと勝てなくて仕方ないと誰もが思っていました。

それよりも日本は結構良い守備をして頑張っていたので、日本サポーターは二戦目のクロアチア戦に大きな期待を持っていました。

クロアチア戦では前半から日本は飛ばします。

早いパス回しとプレスで試合を支配していたのは日本でした。

クロアチアはゲームメーカーのボバンを怪我で欠き、ボールをうまく回すことができないため、中盤を省く作戦に出ていました。

前半に試合を支配した日本でしたが、どうしても得点を取ることはできませんでした。
中山の最大のチャンスもキーパーのファインセーブに阻まれました。本当に惜しいシュートでした。

後半になると、34度(ピッチ上は40度)という暑さのため両チームとも疲弊し、一進一退の攻防でした。

しかし結局、大きな差があったのが、フォワードの決定力でした。

一瞬の隙をつかれ、クロアチアFWのシュケルにあっさり得点を許してしまい、そのまま敗戦です。

3戦目のジャマイカ戦も、日本は多くのチャンスを作りますが、ここでも決定力の差が出てしまうのです。

日本は27本ものシュートを放ちましたが得点できたのは1点です。

ジャマイカのエース、ウィットモアに先に2点を取られてしまい、追いかける日本は、相馬⇒ロペス⇒中山のヘディングシュート崩れから膝で押し込むという、なんとも中山らしい得点で記念すべきワールドカップ初得点をあげるのでした。

実はこの試合でキーとなったのは、ロペスと平野の途中交代でした。

この2人が試合の流れを変えたのです。さらにシステムを3-5-2から4-4-2に変えたことが良かったようです。

試合の流れを変えたことで何とか1点もぎ取りますが、時すでに遅しという感じで、試合終了を向かえてしまいました。

しかしこの試合で1点をもぎ取り、ワールドカップで初得点をあげたのは、日本サッカーにとって非常に大きな前進だったと言えるでしょう。

もし無得点で全敗だったことを想像すると、ぞっとします。

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結果概要は以下となります。

★星取表
グループリーグ・グループH
1998WCUP結果.jpg


映像で振り返ったほうが、分かりやすいでしょう。
(画像が悪くてすみません)


ジャマイカ戦はもう少し見やすいのがありました。



また随時、更新します。
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第3回 1998年初めてのワールドカップ最終予選 [1998年 初ワールドカップ]

第3回目の今回は初めてのワールドカップについて特集します。

1998年に日本代表は始めてのワールドカップに参加することが出来ましたが、それまでの道のりは本当に険しいものでした。

おいおい、その前の1994年ワールドカップの予選(ドーハの悲劇)についても特集したいと思います。この悲劇なくしては日本代表は語れませんので。。。

まずはワールドカップを決めた歓喜の瞬間です。「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれています。




ここで最後のゴールを決めたのが岡野雅行という選手でした。

岡野の愛称は野人でした。めちゃくちゃ足だけが速い印象の選手でした。決定力はなかったです。

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この最終予選のメンバーはおおよそ以下のようになっておりました。
(下記はワールドカップ登録メンバーです。予選ではカズや北澤も頑張ってました)

背番号  氏名        ポジ   年齢   チーム
1 小島伸幸 GK 32 ベルマーレ平塚      
2 名良橋晃 DF 26 鹿島アントラーズ   
3 相馬直樹 DF 26 鹿島アントラーズ  
4 井原正巳 DF 30 横浜マリノス  主将 
5 小村徳男 DF 28 横浜マリノス  
6 山口素弘 MF 29 横浜フリューゲルス  
7 伊東輝悦 MF 23 清水エスパルス      
8 中田英寿 MF 21 ベルマーレ平塚  
9 中山雅史 FW 30 ジュビロ磐田  
10 名波浩 MF 25 ジュビロ磐田  
11 小野伸二 MF 18 浦和レッドダイヤモンズ      
12 呂比須ワグナー FW 29 ベルマーレ平塚  
13 服部年宏 MF 24 ジュビロ磐田      
14 岡野雅行 FW 25 浦和レッドダイヤモンズ   
15 森島寛晃 MF 26 セレッソ大阪     
16 斉藤俊秀 DF 25 清水エスパルス      
17 秋田豊 DF 27 鹿島アントラーズ  
18 城彰二 FW 22 横浜マリノス  
19 中西永輔 DF 24 ジェフユナイテッド市原    
20 川口能活 GK 22 横浜マリノス  
21 楢崎正剛 GK 22 横浜フリューゲルス      
22 平野孝 MF 23 名古屋グランパスエイト
監督   岡田武史

懐かしい選手ばかりでいわゆるレジェンド的なメンバーが多く含まれていますね。

個人的には井原、相馬、山口、中田、名波、中山、ロペス、川口が印象的です。

中田英寿はこのときから群を抜いてうまかったです。

次回以降でもう少し各選手について特集したいと思います。

最終予選のゴール集を見ると、あのときの感動がよみがえってきます!




このときのワールドカップ参加アジア枠は3チームで、最終予選はグループA、Bの10チームで争われました。
各グループ1位になれば、ワールドカップ本戦出場決定となり、グループ2位の場合はそれぞれグループの2位同士で決定戦を行います。

日本はグループ2位となってしまい、2位同士の決定戦(イラン戦)の末、本戦出場を勝ち取ったのです。

★グループ予選の結果
第1戦 VS ウズベキスタン (Home)         ○ 6 - 3
第2戦 VS アラブ首長国連邦の旗 UAE (Away) △ 0 - 0
第3戦 VS 韓国 (Home)         ● 1 - 2
第4戦 VS カザフスタン (Away)         △ 1 - 1
第5戦 VS ウズベキスタン (Away)         △ 1 - 1
第6戦 VS アラブ首長国連邦の旗 UAE (Home) △ 1 - 1
第7戦 VS 韓国 (Away)         ○ 2 - 0
第8戦 VS カザフスタン (Home)         ○ 5 - 1

【おおまかな戦歴】
1997年9月7日 ホーム国立競技場で行われた初戦のウズベキスタン戦を三浦知良の4ゴールなどで6-3と大勝

9月19日 気温40度のアブダビで行われたUAE戦を0-0で引き分けた日本

9月28日 このグループ最大のライバルとされた韓国戦
日本は後半22分、山口素弘のループシュートで先制するも、この日初出場だったFW呂比須ワグナーをDF秋田豊と交替させ守りに入ったことが裏目に出て、後半39分と42分にゴールを許し、1-2で逆転負け。3試合を終了して1勝1分1敗の勝点4にとどまる。
同じく3試合を消化した韓国は3連勝で勝点9の1位、2位にUAEが勝点7で続く状態となり、早くも1位通過に危険信号が灯る。

10月4日 アルマトイで行われたカザフスタン戦
コーナーキックから秋田豊のヘディングで先制するも、ロスタイムに同点ゴールを決められて引き分け。
同日、首位の韓国がホームでUAEに3-0で快勝したため、2位UAEとの勝点差こそ2に縮まったものの、首位韓国との勝点差は7に開き、逆転は絶望的となる。
ここで加茂周監督は更迭され、ヘッドコーチの岡田武史が監督に就任した。

10月11日 岡田監督の初戦、タシケントでのウズベキスタン戦
前半30分に先制され、敗戦直前まで追い詰められるが、終了間際にDFも前線に上げるパワープレーを敢行した結果、呂比須ワグナーのヘディングで後半44分ようやく同点とし、なんとか引き分けた。同節、韓国はアウェーでカザフスタンと引き分け、UAEは試合がなかったため、韓国との勝点差こそ7のままながら、UAEとの勝点差は1に縮まり、まさに首の皮一枚繋がった引き分けであった。

10月26日 UAEをホームの国立競技場に迎えた2位争いの直接対決
UAEが10月18日の第7節でカザフスタンに敗れたためUAEと日本の勝点差1のまま、日本が勝てば2位浮上となる試合だった。呂比須が前半4分に先制ゴールを挙げるも、前半37分に追いつかれそのまま引き分けた。この試合の結果、上位3チームがいずれも2試合を残した状態で、同節試合がなく既に勝点16を得ていた韓国と2位UAEとの勝点差が8となり、韓国のグループ1位およびW杯本戦出場が決定し、日本は自力での2位達成が消滅した。危機的状況である。

11月1日 あとがなくなったアウェーでの韓国戦
日本は、既にワールドカップ出場を決め、主力DFの洪明甫を累積警告で欠いた韓国守備陣を試合開始から翻弄し、前半1分に名波浩、前半37分に呂比須がゴールを決め2-0と快勝、勝点を10とする。翌日、UAEがホームで最下位ウズベキスタン相手に引き分けたため、UAEの勝点は9にとどまり、日本は逆にUAEに勝点差1をつけ2位に浮上した。

11月8日 勝てばB組2位が確定する最終戦
アウェーで終了間際引き分けに持ち込まれたカザフスタンをホームに迎えた1戦。秋田のヘディングで先制、代表復帰した中山雅史や高木琢也のゴールなどで5-1で快勝し、第3代表決定戦への出場権を得た。


この動画に良くまとまっています!


いやー見ると本当に当時のあの熱かった時代を思い出します。本当に感動しました。

最後に決めたのは岡野でしたが、その前の中田のドリブルとシュートが凄いと思います。
上記のようなスケジュールで激しく試合をこなし、最後の試合でしかも延長に入っており、限界を超えたくたくたのはずなのに、あのプレーは本当に凄いと思います。このときまだ彼は21歳ですからね。

やっぱり本田より中田のほうが凄いと思います。

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第2回 日本サッカーリーグで活躍した人々(フリーキック名手・木村和司) [日本サッカーの歴史]

今回は前回に引き続き、Jリーグの前身である日本サッカーリーグで活躍した選手を特集します。

「木村和司」さんを知っておりますでしょうか?

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(出典:
http://blog.goo.ne.jp/fantasista1984/e/5aa195407423e418a4581c47306e9a91)

35歳以上のサッカー好きであれば、必ず知っている名前です。

Jリーグでも活躍しました。

略歴は以下となります。

※生年月日 1958年7月19日(2015年時点で57歳)

1975年:県立広島工業高校で高校選手権ベスト4

1977年:明治大学二部政治経済学部入学、サッカー部に所属。同期にはなでしこJAPAN監督の佐々木則夫

1979年:明治大学2年で日本代表入り、その後代表チームの常連に

1981年:高校の先輩・金田喜稔のいる日産自動車サッカー部(後の横浜F・マリノス)に入部

1983年:ロサンゼルス五輪予選前までは右ウイングとしてプレーしたが、所属クラブと同様に攻撃的MFとなり、その後80年代の日本代表の攻撃の核となった。

1986年:当時のプロサッカー選手登録制度「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」の第1号選手となる。年棒は1200万だったらしいが、プロ扱いとなった途端に低迷が始まる・・・

1980年代後半:成績が低迷し、日本代表チームからも攻撃的MFのポジションを水沼に譲る形で遠ざかってしまう。

1993年:Jリーグ発足に伴って横浜マリノス(現:横浜F・マリノス)と契約。「ミスター・マリノス」と呼ばれた。1981年からずっと日産に所属していた。
    
1994年:現役引退

その後指導者となり2010年(平成22年)シーズンより横浜FMの監督に就任しますが、大きな成果は残せなかったようです。。


木村和司の代名詞といえば、なんと言ってもフリーキックです。

とりあえずこの動画を見てください!



これが木村和司の伝説のフリーキックです。

この試合は1985年(昭和60年)のワールドカップメキシコ大会最終予選の韓国戦です。40メートル手前からみせたフリーキックは、試合には敗れワールドカップに出場できなかったものの、伝説となりました。

めちゃめちゃ曲がって、落ちてますね!こんなフリーキックは世界的に見てもなかなかありません。

他にもいろいろなフリーキック動画があるものと思って探したのですが、、、、

ありませんでした。意外に。

それ以外のプレー動画だとこんな感じです。1993年のJリーグですね。



木村和司さんも間違いなく日本のサッカーに大きく貢献した1人だと思います。


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第1回 日本サッカーリーグで活躍した人々(セルジオ越後、釜本邦茂) [日本サッカーの歴史]

日本サッカーの歴史を紐解くと、大まかには以下のようになっています。

1921年  日本サッカー協会の前身である大日本蹴球協会が創設
       天皇杯全日本サッカー選手権大会の前身でもあるア式蹴球全国優勝競技会が開催

1923年 日本で初めての国際Aマッチ

1927年  第8回極東選手権で日本代表はフィリピンを破り、国際大会で初勝利

1936年  日本代表は、ベルリンオリンピックにて、初めてオリンピックのサッカー競技に出場。
       ここで日本代表は優勝候補の一つであったサッカースウェーデン代表に勝利した(ベルリンの奇跡)

1954年   FIFAワールドカップ・予選で初めて日本はW杯の予選に参加。
       日本は韓国と対戦したが、1分1敗の結果となり本戦出場は成らなかった。

1960年  ローマオリンピックに出場したが予選敗退


1964年  日本代表は東京オリンピックに出場
       アルゼンチンを逆転で破るなどで、グループDの争いに勝ち抜き、ベスト8の成績を残した。

1965年  日本サッカーリーグ(JSL)が開幕


Jリーグの前進である日本サッカーリーグの開幕が日本サッカー界にとってまずは大きな一歩だったと言えるでしょう。


日本サッカーリーグでは今も解説などで名前が出てくる人々が活躍しています。
今回はそんな人たちを何人かご紹介したいと思います。

①セルジオ越後 (1945年7月28日生まれ:2015年時点で70歳)
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(出典:http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/jfootball/2010/09/16/article119/

辛口の解説で誰もが知っている有名人ですね。
彼はもともと日系人としてブラジルで産まれ、1964年にコリンチャンスという超名門のクラブチームに入団しています。東京オリンピックにはブラジル代表で出そうだったとか。

1972年に来日し、藤和不動産サッカー部(湘南ベルマーレの前身)に入り、1974年までプレーした後引退しております。

元プロ選手ということで大きな注目を集めたようですが、40試合で6得点と日本サッカーリーグではそれほど活躍できなかったようです。

セルジオ越後はブラジルのロナウジーニョが得意とする「エラシコ」というフェイントを考案したとも言われています。結構すごい人なんです!



この動画で彼のうまさが良く分かります。老人なのに半端ないです!



②釜本邦茂(1944年4月15日生まれ:2015年時点で71歳)
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(出典:http://www.kyoto-np.co.jp/kp/sport/sports_alacarte/anohianotoki/soccer/091210.html

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(出典:http://soccerdougasyu.com/894

最近はあまり出てきませんが、振り返ってみるとこの人、めちゃくちゃ凄かったみたいです。
30代後半ぐらいの人からすると、Jリーグガンバ大阪の監督だったイメージがあると思います。指導者としてはイマイチでした。

【選手としての実績】
日本サッカーリーグで251試合出場、通算202得点(歴代1位)、通算79アシスト(歴代1位)を記録。得点王7回、アシスト王3回、年間優秀11人賞14回、日本年間最優秀選手賞7回受賞(歴代1位)と傑出した活躍を見せました。また、サッカー日本代表として国際Aマッチ76試合75得点(総通算231試合153得点)を記録し、1968年メキシコ・オリンピックでは、アジア人初の得点王に輝いています。

日本サッカーリーグの通算得点の第2位は85点なので、あまりにも大きな差で断トツの1位なのです。

今プレーしていたら確実に海外に行って活躍できたしょうね・・・

【プレー動画】


これは凄いです。めちゃくちゃ決定力がありますね~


今回はここまでです。

随時更新していきます。

次回は木村和司や永井良和など、もう少し昔の人たちを追ってみます。
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